浮世絵で見る江戸・築地

第10回 築地海軍兵学校〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:新橋なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

長崎から船に乗って〜♪

それで、オランダから海軍の先生達が長崎にやって来たの?


まずはスパルタ教師として生徒達に恐れられたペルス・ライケン率いる第一次教師団22名、次に、後にオランダの海軍大臣になったヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ率いる第二次教師団がやってきた。でも、実際に船がないと話にならないから、幕府はオランダ国王から練習艦として蒸気船「観光丸」を寄贈されたんだ。これがその「観光丸」の写真ね。

これって新しい写真じゃないですか。っていうことは、まだ船が残っているっていうこと?

さすがにそれは無いよ。本物の「観光丸」は明治9年(1876)に解体されている。これは昭和62年(1987)にほぼ忠実に復元された「観光丸」ならぬ「観光船」だ。ハウステンボスに行けば見られるよ。この船が日本籍として初めての蒸気船だ。

この船を使ってオランダ人教官のもとで練習したわけね。練習したのは、やっぱり幕府の人たち?

幕府からは安政2年(1855)に幕府伝習生37名が入校したのが第1期生。翌年(1856年)の第2期生は地元長崎を中心に12名。この中に勝海舟や榎本武揚がいた。その後、将来の士官候補生となる若手が26名。これが第3期生ね。幕臣ばかりじゃないよ。1期生には薩摩藩16名、肥後藩5名、筑前藩28名、長州藩15名、佐賀藩47名、津藩12名、備後福山藩4名、掛川藩1名も参加していたんだ。

佐賀藩だけ47名って、特別多いのね。



佐賀藩は独自に「電流丸」という蒸気船を発注していたからね。短期間で即戦力を育てる必要があったんだ。幕府伝習生にしても、最終目的はオランダに発注した2隻の蒸気船を乗りこなすことだからね。そのうちの1隻が有名な「咸臨丸」だ。

「咸臨丸」って、勝海舟とか福澤諭吉を乗せてアメリカに行った船でしょ。


キミもそのくらいは知ってるわけだ。安心したよ。「観光丸」は外輪船だったけど「咸臨丸」はより近代的なスクリュー船だった。で、「咸臨丸」と同時に発注された「朝陽丸」だけど、この船は後に明治政府の手に渡って、函館戦争で旧幕府軍の攻撃で沈没するという皮肉な運命を辿るんだ。

幕末って人も船も、明日の運命がわからない時代だったのね。


たまにはキミもいいこと言うねぇ。そうなんだ。伝習所は出島近く、今の長崎県庁の辺りにあったんだけど(写真下)、ここで学んだ伝修生達も、その後戊辰戦争で敵味方に別れ、それぞれの人生を歩むことになるんだ。幕臣では勝海舟を筆頭に、永井尚志、榎本武揚、矢田堀景蔵、中島三郎助、小野友五郎のように、後の日本海軍を作った人たちや、松本良順のように近代医学の発展に寄与した者もいる。

幕臣以外の人たちはどうだったの?



当然、海軍関係者が多いけど、薩摩の五代友厚のように関西経済界の重鎮になった者もいれば、津藩の柳楢悦(やなぎ・ならよし)のように後年「日本水路測量の父」と呼ばれた人もいる。ちなみにこの人の息子が美術評論家の柳宗悦、孫がプロダクトデザイナーの柳宗理だ。

へぇ〜、他にも海軍以外の道に行った人はいないの?


佐賀からは日本赤十字社を創設した佐野常民、若い頃「からくり儀右衛門」と言われ、東芝の始祖でもある、発明家の田中久重なんかがいるよ。

結構ユニークな人材が生まれているのね。ビックリ!


うん。これには理由があってね。伝習所では航海術以外にも、医学、化学、造船学、算術、機関学といった最新の学問を教えていたんだ。最初の卒業生を出すまでわずか2年足らずだったけど、明治以降、日本が短期間で技術革新を成し遂げられたのは、実はこの時期に学んだことが大きい。実際、伝習所の併設機関が発展して出来たのが、長崎大学や長崎造船所なんだ。

わずか2年っていうと、それから伝習所はどうなっちゃったの?


安政4年(1857)には、今回のテーマである築地の軍艦操練所に移転するわけ。伝習生達は教官として江戸に赴くことになって、安政6年(1859)には、長崎伝習所は閉鎖されて、高給で雇われていたオランダ人たちは母国に帰ることになる。結局長崎でのオランダ人による伝習所の歴史は4年で幕を閉じる。

知らないことばかりで、習いたてで、しかも2年で卒業したらすぐ先生っていうんだから、幕府が焦っていたのはわかるけど、もの凄いスピードよね。

あはは。そうだね。今の教育から考えたら信じられない早さだね。おそらく彼らは昼夜を分かたず学んでいたんだと思うよ。築地の軍艦操練所なんだけど、幕府の武芸訓練機関だった講武所の一部門として開設された。で、早速、長崎伝習所総監の永井尚志を筆頭に、第1期卒業生達が今度は先生として「観光丸」で江戸に移動してきたわけ。

移動するのもトレーニングのうちってわけね。しかもオランダ人無し、日本人だけで来たんだから偉いわね。

当初は軍艦教授所って言ってたんだけど、軍艦操練所と改名した。場所は浜離宮の南側で、この一帯はもともと尾張、一橋、稲葉といった大名の下屋敷があったんだけど、最も有名だったのは松平定信の屋敷で「浴恩園」という壮麗な庭園があったんだ。

それをわざわざ潰して軍艦操練所にしたってこと?


いや、文政12年(1829)の大火で殆ど焼けてしまったんだよ。跡地の一部に講武所が建てられるんだけど、「浴恩園」にあった2つの池は、関東大震災まではあったらしい。

でも、幕府にも事情はあったんでしょうけど、そんなに急いでわざわざ長崎から築地に移す必要ってあったのかなぁ?。

まぁ、ひとつはお金がかかるということ。もうひとつは、井伊直弼が大老になったことだね。直弼は開国の立役者ということになっているけど、もともとは鎖国論者で、大の西洋嫌いだった。

意外ねぇ。ちょっとイメージ変わっちゃった。


軍艦操練所はその後度々火災に見舞われたり、軍艦所、海軍所と名前が変わったり、その間に勝海舟が神戸に海軍操練所を作って坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐亨といった人材を育てたりと、移転して10年の間にいろいろあったんだけど、結局幕府が崩壊して明治政府が接収したから、築地一帯はそのまま江戸幕府の海軍用地から明治新政府の海軍用地になったわけ。

なるほど。それで海軍兵学寮もできたっていうことね。


そう。軍艦操練所の跡地にできたのが築地ホテル館で、隣接した一帯が海軍用地になった。兵学寮は明治2年(1869)創設の海軍操練所を翌年に改称、4年後の明治6年(1873)には英国からア一チボールド・ルシアス・ダグラス海軍少佐ほか33名の教官団を招聘する。明治9年(1876)には海軍兵学校と改称して、明治16年(1883)には赤煉瓦の校舎に改築、明治20年(1887)に広島の江田島に移転するというわけ。

どうして今度は広島に移転したの?



呉に鎮守府ができたこともあるけど、伊地知弘一中佐の推薦文によれば「第一、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ海軍の志操を堅実ならしむるに在り。第二、生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け精神勉励の一途に赴かしむるに在り。第三、生徒の志操を堅確ならしむるため繁華輻輳の都会を避くるを良策とす」ということだね。

なんだかよくわからないけど…。



まぁ、簡単に言えば、軍人を育てるなら都会より田舎の方が環境がいいという理屈だね。本当は横浜か横須賀の方が近くて良かったのではないかという意見もあったらしいよ。兵学校は江田島に移ったけど、築地には他にも最初の海軍本省、海軍軍医学校、海軍経理学校があった。築地市場の場内に水神社という小さな神社があって、そこに「旗山」と刻まれた、海軍卿旗を掲揚した旧浴恩園内の築山跡(写真下)がある。それが、今築地に海軍施設があったことを偲ばせる唯一の場所だね。
<おわり>


←国立がんセンター駐車場入口付近にある海軍兵学寮跡・海軍軍医学校跡の碑    

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