浮世絵で見る江戸・築地

第5回 築地外国人居留区〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:新橋なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

幕府の深謀遠慮で選ばれた?築地

だいぶ話が横道に逸れたから、今度は築地の話をして下さいよ。


わかってますよ。本当はもっといろいろ言いたいところだけど、嘉永6年(1853)の黒船来航に始まって、翌年の日米和親条約、さらに安政年間の「五カ国条約」といった辺りは、教科書にも書いてあるからキミも知ってるだろ。この「五カ国条約」で東京と大阪を開市、函館(当時は箱館)、神奈川、長崎、兵庫、新潟の5港が開港されたわけ。

あれっ?兵庫っていうのは神戸のことでしょ。神奈川は横浜のこと?

まぁ、そうなんだけど、そこが結構重要なポイントなんだな。横浜、神戸と言えば今や異国情緒の代名詞みたいな街になってるけど、幕末の頃には何もない寒村だった。横浜の例で言うと、当初アメリカ側が要求した神奈川というのは今の横浜市神奈川区に当たる場所で、東海道の宿場町であり、神奈川湊という物流港でもあった。

神奈川区って、今の横浜だと港のイメージがあんまり無いところじゃない?

その通り。実は幕府は意図的に神奈川湊を避けて、対岸の寒村、横浜を指定したんだ。宿場町に外国人が増えると、当然東海道を行き来する大名とトラブルが起きる可能性が高い。当時の薩長水戸といった雄藩は攘夷、つまり外国人排斥に傾いていたからね。

そういえば、神奈川で外国人が殺された事件があったわよね。


日本史の授業をちょっとは思い出してくれたようだな。それが「生麦事件」だ。横浜の近く、生麦村で薩摩藩の大名行列に乱入してしまったイギリス人を藩士が手討ちにした事件で、これがその後「薩英戦争」にまで発展する。

恐れていたことが現実になったわけね。


そういった事件をある程度予測していたから、当時対外交渉に当たっていた幕臣の岩瀬忠震(ただのり)は、神奈川宿を避け、横浜開港で押し通す。当然、後でイギリスとアメリカから猛烈な抗議がきたけど忠震は「横浜も神奈川ですけど、何か?」ってな具合でシラを切り通した。
江戸時代の日本人って結構大胆なのね。


岩瀬はあの駐日大使ハリスも絶賛したほどの切れ者だからね。今の逃げ腰外務大臣とは比較にならないよ。まぁ、そんなわけで横浜開港で落ち着いたから、山下町の辺りが居留地になって、その後山手へとどんどん発展して行くんだ。岩瀬としては苦肉の策だったかもしれないけど、今では「横浜発展の功労者」みたいに言われてる。実を言うと神戸も幕府側の思惑で発展した町なんだ。

さっき大江戸さんが神戸じゃなくて、兵庫って言ってたけど、やっぱり横浜と似たような理由?

兵庫港というのは、大河ドラマで話題の平清盛が入れ込んだくらい、平安時代から国際港としての発展が約束された天然の良港だった。要するに国内の物流を考える上でも、海外からの船を迎える意味でも最高の立地だったわけ。加えて江戸時代、商業の中心は大阪だったから、ここに近いというのもプラスポイントだった。

外国人だってそこに目をつけるわよねぇ、当然。


しかし幕府は「天皇のいる京都から近いので、何かとトラブルのもとになる」という理由でなかなか開港しなかった。でも本当のところは、幕府の目が届きにくい上方で自由に商売をやられると、外国人に日本経済を握られかねないし、薩長土肥のような西国の雄藩に利用される危険性もあると考えたわけ。結局開港したのは条約締結から10年後だ。しかも兵庫の市街地から3キロ以上離れた神戸を居留地に指定したんだ。

それはやっぱり横浜と同じ理由?当時は外国人をなるべく隔離しておきたかったのね。歴史の教科書にあっさり書いてあることでも、実際はいろんな事があったのね。

「水面下のせめぎ合い」ということですよ。特に幕末の歴史は薩長が中心になっているから、こうした幕臣たちの苦労は忘れられてしまっているんだ。

ところで、横浜や神戸は開港だけど、東京と大阪は開市だって言ってたでしょ。どう違うの?

さっきも言ったように大阪は商業の中心であり、東京は政治の中心だ。この港を開くことは、清のように国を乗っ取られる近道になる。だから国防の意味で絶対に譲らなかったわけ。でも、外交官なんかの利便性を考えれば居留は許さざるを得ない。そこで東京は築地、大阪は川口が居留地に選ばれた。

でも、どうして築地だったの?他にもありそうな気がするけど‥。


はっきりとした理由はわからないけど、当時は本願寺と大名の下屋敷で賑わっていた町だから、横浜や神戸みたいにさびれていたわけではない。これはあくまで推測だけど、鉄砲洲のあたりは一応海に面してはいるけど遠浅の海岸だから、大きな船は近づけない。だから貿易には適さない。でも、堀割が巡らされて大名の倉庫が並んでいたから、一見商業地に適した場所に見える。

ははぁ、つまり近場の物流にはいいけど、海外物流にはあんまり良くないってことね。

そう。幕府としてはそんな思惑があったんじゃないかな。貿易の窓口にはしたくないけど、商業地としての活気がないと居留地として否定されるだろうと‥。当然、治安上の理由もあったはずだ。運河と海岸に囲まれた町だから、橋さえ抑えておけば攘夷派も侵入しにくい。加えてもうひとつあるとすれば、大名屋敷と言っても外様が多かったから、新しく町を造る際に立ち退き命令が出しやすかったということかな。

そこまで考えていたとしたら幕末の徳川幕府って、だらしないように見えて結構したたかなのね。

しかも、実際に居留地として使われたのは明治に入ってからなんだ。江戸市中には維新の風が吹き荒れて、不穏な空気に満ちていたから、居留地どころではなかったんだよ。

結局、明治新政府になっても居留地は築地のままで行こうということになったのね。

国家間の約束事というのは、そう簡単には変えられないからね。今の基地問題を見てもわかるだろ。政権が変わったからといって「無かったことにして」というわけにはいかない。ただ、そこで微妙なズレが生じるんだな。外国人の導入に消極的だった徳川幕府と、積極的な明治新政府の違いだ。

あっ、そうか。築地は貿易には向かないっていうことが、明治になったら逆にマイナスになったっていうことね。

なぜ首都にあって海外の窓口に選ばれた築地が、横浜のような異国文化たっぷりの発展を遂げずに、現在のような魚市場の町になっていったかという理由はそこにあるんだ。単純に言えば肝心の商人が住みつかなかったということさ。

←明石町にある「築地居留地跡」の説明版

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