浮世絵で見る江戸・築地

第6回 築地外国人居留区〜その3

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:新橋なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

まるで中世ヨーロッパ?

それで、築地居留地って、最初はどんなところだったの?


ワタシも見てきたわけじゃないから正確な事は言えないけど、慶応3年(1867)に決まった11カ条の取り決めによると、今の明石町に当たる一帯、おおよそ3万坪は永久借地権付きの更地で、入札で借り主を決める。隣の南小田原町、湊町、入船町、新富町一帯約12万坪は雑居地区、つまり日本人の家を借りてもいい地区にする。居留地の周囲と中央の十字路は道幅40フィート以上とする。外国人が自由に歩ける範囲は江戸川、利根川、多摩川に囲まれた地域。これを超える場合には許可が必要と、ざっとこんなもんだな。

何だか全然イメージ湧かない…。



そりゃそうだな。借りる方だって全然イメージ湧かないし、大名屋敷の撤去なんかで時間がかかったから、実際に入札が始まったのは3年後の明治3年(1870)になってからで、しかも恐ろしく人気がなくて、落札されたのは52区画のうち20区画だけ。

やっぱり商業地じゃないと人気が出ないのね。


結局明石町の入札地区が満杯になったのはさらに14年後の明治17年だ。隣の雑居地区には新島原遊郭ができたり、入船町界隈はチャイナタウン化していたから、むしろ隣の方が賑わっていたようだね。

結局、居留地にはどんな人たちが住むようになったの?


最初はやっぱり外交官ですよ。一番早かったのはイギリスとオランダ、次いでポルトガル、アメリカ、ドイツ、スペイン、ペルー、スイス、チリの合計9カ国だ。でも、当時はまだ日本に駐留する外国人自体が少なかったから、商人が領事を代行したり、一人で2カ国の領事を掛け持ちなんてこともあったらしい。

やっぱりそういう施設は居留地に置かなければいけなかったのかな。


そんなことはないんだけど、帝都東京にあっては、洋館だらけの居留地が一番ヨーロッパ風だったからね。住みやすかったということですよ。それに政府の厳重な管理下に置かれたから治安も良かった。
領事館って大使館みたいなもの?



まぁ、実務が主体の事務所のようなものだね。それよりクラス上の、大使や公使がいる外交官事務所が公使館。これが明治7年のアメリカ公使館を皮切りにどんどん築地に移転してくるんだ。ペルー、オーストリア・ハンガリー、フランス、朝鮮、スペイン、アルゼンチン、スゥエーデン、ブラジルといったところだ。中でも一番大規模だったのがアメリカだね。

今じゃアメリカ大使館って言えば赤坂っていうイメージしかないけど…。


赤坂に移ったのは明治23年。その3年後には大使館に昇格した。でも、築地にあったっていう名残は少しだけ残ってるんだ。明治9年にアメリカ独立100年を記念して祝典が開かれたんだけど、その時にアメリカの象徴である星と盾と白頭の鷲を真鶴石20数個に彫らせたんだな。その一部が聖路加国際病院に飾られているんだ(写真下)。

そういえば、聖路加病院って、築地で一番外国っぽい建物かもね。


聖路加国際病院、正しい読み方は「せいろか」じゃなくて「聖ルカ」国際病院ね。もともとはイギリスから来た宣教師のヘンリー・フォールズが開業した病院が始まりと言われているんだ。このフォールズさんについては後で詳しく説明するけど、宣教師であると同時に医師でもあり、日本にいた12年の間に盲人教育の施設開設に貢献したり、指紋法を研究したりと、たくさんの成果を残している。

宣教師さんかぁ。っていうことは、どちらかというと商人というよりもそういう人たちが住んでたのかしら。

いい読みだねぇ。貿易商達はこぞって横浜に行ったから、築地に来たのは日本で禁教とされてきたキリスト教を布教しようと張り切る各教派の宣教師たちが殆どだった。やがてその人達が布教活動と同時に医療活動や慈善活動を行っていくんだ。

ははぁ、だから病院なのね。



もちろん布教活動に最も重要な協会も建てた。だから築地居留地には最大で11カ所の教会堂があったんだ。そのうち今でも築地に残っているのは築地カトリック教会と聖路加国際病院の礼拝堂だな。

うわぁ、だんだんイメージ湧いてきた。まるで中世ヨーロッパの雰囲気じゃない?

各教派はそれぞれ教育のためにミッションスクールも作ったから、築地居留地は教会と学校と外国公館の町へと発展していくんだ。しかもそのすべてが洋館だったから、まさに、築地居留地は突然東京に出現した中世ヨーロッパ都市だったわけだね。

その時のミッションスクールって、今も残ってるの?


ざっと名前を挙げれば、立教、明治学院、暁星学園、雙葉学園、青山学院、関東学院、東洋英和、女子聖学院、女子学院といったところだね。

うわっ、東京にあるミッションスクールほとんど全部って感じじゃないの。


ミッションスクール以外にも、慶應義塾大学や工学院大学も築地居留区が発祥の地だ。アメリカンスクールなんかも神田から移転してきたから、明治から大正にかけての築地は国際色豊かな学生街でもあったんじゃないかな。

なんか凄く行ってみたくなったわ。タイムスリップできないかなぁ。


あはは。それぞれの学校や宣教師達については、これからおいおい話すとして、当時の築地が今では全く想像もできないような外国風の街だったってことだけはわかってもらえたかな。

←築地居留地の計画図。区画割りが示されている

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