浮世絵で見る江戸・築地

第7回 築地外国人居留区〜その4

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:新橋なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

江戸築地のランドマーク

築地居留地が中世ヨーロッパみたいな街並みだったってことはわかったけど、実際にどんな建物が立っていたの?

最初に登場して江戸っ子の度肝を抜いたのが「築地ホテル館」だね。これが出来たのは旧暦で慶応4年(1868)8月。9月から明治元年に改号されるから、ギリギリ明治の一歩手前だ。上の錦絵(早稲田大学蔵)が陸側、左の写真(清水建設蔵)が海側から見た全景だ。

へぇ〜、今見ても面白い建物ね。デザインも和洋折衷だし。


当時の江戸ではナンバーワンの名所だったらしいよ。何しろ日本初の本格的な洋式ホテルだからね。当然錦絵のモデルにもなって、たくさんの絵師が図柄を競ったんだ。全部で100種類以上あるらしいよ。

何かわかるような気がする。今で言ったらスカイツリーみたいなものよね。観光客で溢れていたに違いないわ。

建設のいきさつはこうだ。幕府が居留地を設けるに当たって、諸外国からのリクエストもあって、幕臣の小栗忠順(上野介)の発案で交易所を兼ねた洋式のホテルを建設することになった。当初は江戸開市が慶応3年12月7日と決まっていたから「半年で竣工」、幕府も存亡の危機にあったから「自費で造って経営も自前で」という厳し過ぎる注文だった。

そんなんじゃ、誰も引き受けないでしょ。


ところがそれを引き受けた男がいた。清水喜助、今の清水建設の前身である清水組の2代目棟梁だ。初代はもともと江戸城西ノ丸や井伊家、鍋島家の御用を務めた名門だったんだけど、開国をビジネスチャンスとみて、横浜の建設ラッシュに参入するんだな。だから洋館建設にはある程度ノウハウがあったのかもしれない。だから横浜支店の責任者でもあった2代目にとっても、損得抜きでやってみたい大仕事だったんじゃないかな。

お金だってずいぶんかかったでしょうね。


総工費3万両。幕末は超インフレで貨幣価値が下落しているから計算が難しいけど、今の金額で1億〜2億っていうところじゃないかな。大工の棟梁にそんな大金はないから、喜助は木場の材木商・鹿島屋清兵衛と信州の吉池恭介に共同出資者になってもらった。それでやっと集まったのが2,500両だ。

27,500両も足りないじゃない。っていうか10分の1にもなってないわよ。

喜助は残りは工事しながら一口100両の株主を募集するということで見切り発車したんだ。喜助は新時代の到来を予感していたんじゃないかな。今は自転車操業でも、必ず江戸に洋館の建設ラッシュが来るとね。
さすが清水建設のルーツね。凄い度胸だわ。


設計はアメリカのR.P.プリジェンス。この人は他に横浜の英国公使館や横浜、新橋の停車場なんかも手がけている。「汽笛一声新橋を〜♪」で有名な新橋の停車場は復元されたものが汐留にあるから、今でも見ることができるよ。

要するに日本最初の鉄道の駅を設計した人ってことね。


そういうこと。で、プリジェンスの指導の下に築地ホテル館を着工したのが慶応3年8月。まぁ、それからが大変だった。当時の江戸にはまだ攘夷派がたくさんいたからね。いつ火をつけられるかわからないから、昼夜交替で見張りを置いた。やっと骨組みができた2カ月後には幕府が消滅、つまり施主がいなくなった。ついでに開市も延期になって工期は伸びたんだけど、共同出資者の吉池が手を引いたりしてトラブル続きだ。結局喜助は明治新政府に20,000両借金することで乗りきる。

施主がいなくなったら普通そこで止めちゃうと思うけど、今度は新政府と交渉するわけだから凄い執念よね。

艱難辛苦を乗り越えて、1年1カ月の突貫工事の末、日本初の本格洋式ホテルは完成した。翌月には元号が明治に変わり、11月には東京開市。ホテルはこの日に合わせて開業したようだね。当日は玄関に諸外国の提灯を下げてお祝いしたらしい。

実際どんなホテルだったのかなぁ。中に入ってみたいわね。


資料として残っているのは延べ面積1600坪の木造2階建て。西北が正面で東南が海に面している。客室を山の字に並べた形で、各翼の前方と渡廊下の中程に、離れのような部屋があったということだ。

絵を見ると壁がバツの字になってない?


これは蔵の外壁なんかに使われる日本伝統の海鼠(なまこ)壁だね。外壁は漆喰だったということだな。

アーチ型の門がなかなか可愛い感じ。


うん。この絵だけではちょっとわからないけど、アーチの門以外に軍艦操練所時代の長屋門があったらしい。ただ、錦絵によっては長屋門だけが描かれているものとアーチの門だけのものと両方あるから、当初長屋門だったのをアーチの門に建て替えたのかもしれないね。

てっぺんの塔は何に使ったのかな?


単に景色を見るためじゃないかな。18メートルあったっていうから、高層ビルのない当時の江戸市街を眺めるには十分だったと思うよ。大小の船が行き交う東京湾も一望できるし。

お庭なんかもあったりして…。



前庭と後庭があって、後庭は海岸まで続いていて、築山のある日本庭園だったようだね。その左隅に茶亭があって、右隅に東屋があったということだ。

外国から来た人にとってはオリエンタルムード満点ってことね。


まぁ、当初は設計通りの純洋風建築だったと思うけど、時間が経つと、だんだん和風になっていったようだね。なにより経営者が日本人の大工さんなんだから。

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