浮世絵で見る江戸・築地

第8回 築地外国人居留区〜その5

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:新橋なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

メトロポールの灯が見える

それで、築地ホテル館は思惑通り繁盛したの?


当初はホテル内にアメリカ領事館があったりして、たくさんの外国人客でにぎわったらしい。その中にはアーネスト・サトウのような大物もいたようだね。ただ、外国船は横浜までしか接岸できなかったから、アクセスがいいとは言えなかったんだ。

じゃあ、その頃の外国人はどうやって築地まで来たの?。


陸路はランガン、サザーランド、ジョージホワンベッキ、成駒屋といった馬車屋ね。他にも横浜ー鉄砲洲間には乗合船があったんだ。当初は漁民達が転職して小さな和船で運んでいたけど、明治3年には稲川丸、弘明丸、シティ・オブ・エドといった蒸気船の運航が始まる。

ついこの前まで蒸気船にビックリしていたのに、昔から日本人って新しいものを簡単に受け入れるのね。

チョンマゲを切って洋服を着ることに比べたら、蒸気船なんて何と言うことはなかっただろうさ。何しろ文明開化だ。シティ・オブ・エドは名前でわかるようにアメリカ商館の船だったけど、船長と機関士以外、乗組員は日本人だった。弘明丸の場合はフランス人の技術者がいたのは最初の1カ月だけ。あとは全て日本人が運行した。そして、この中から海外に進出する人材が出てくるというわけ。

受け入れるのも早いけど、順応するのも早いのね。


ただ、シティ・オブ・エド号は運行して間もない7月に、築地ホテルの沖合でボイラー爆発という事故を起こして、死者13人、行方不明27人、負傷者108人という大惨事になる。

今だったら航空機墜落並みのニュースでしょうね。


便利な分、リスクも伴うということを初めて知らされた事件じゃないかな。今の原発事故を見ればわかるだろ。高度なテクノロジーは高度な危険と隣り合わせなんだ。まぁ、そんなわけで最初はそこそこ客も入ったんだけど、前にも言ったように商人の殆どは横浜に住み始めたから、築地に居留地が完成した頃には、ホテル客も少なくなってしまった。

それじゃ、清水の棟梁は困ったんじゃない?


喜助は結局ホテルの経営から離れたようだね。その頃には日本人の宿泊もOKになっていたんだけど、好事魔多し。明治5年に和田蔵門の旧会津藩邸から出火した「銀座の大火」が築地ホテル館にも飛び火するんだ。
え〜、開業したばかりじゃない!



そう。開業後わずか3年で築地ホテル館は灰になった。二代目喜助の夢も灰になり、あとにはたくさんの錦絵だけが残ったというわけだ。

残念ねぇ。残っていて欲しかったなぁ…。


ところで、この写真を見てくれよ。何かに似てないかい?


あれっ? これって築地ホテル館じゃない? もしかして再建したの?


そうじゃないんだ。これはかつて兜町にあった第一国立銀行。のちの勧銀、つまり今のみずほ銀行の前身だ。キミがそっくりだと思うのも無理はない。これを造ったのも二代目清水喜助だからね。

喜助さん、活躍したのね。良かったわ〜。


他にも、駿河町の為替バンク三井組も手がけたんだ。やっぱり似てるだろ。

↑「東京駿河町三ツ井正写之図」芳虎筆

てっぺんにちっちゃな塔があるところが共通してるわね。何かカワイイ♪ でも、この頃って東京でもこんなに綺麗に富士山が見えたのね。

左に見えるのが日本橋三越の前身、三井越後屋で、右が三井物産の前身、そして隣の為替バンク三井組は現在の三井住友銀行の前身だ。日本橋にあるこの並びは今も変わっていないんだ。今は地名としては残っていないけど、この地をかつて駿河町と呼んだのは、キミが言うように、静岡にいるみたいに富士山がきれいに見えたからなんだ。

今も同じ所にあるって凄い事よね。喜助さんのビルは2つとも残ってないの?


残念ながらこれらの「明治初期の三大洋風建築」はすべて失われてしまったけど、二代目喜助のフロンティア・スピリットだけは今も清水建設に受け継がれているというわけさ。

ところで、築地のホテルはそれ以来建設されなかったの?


明治5年から12年まで「江戸ホテル」という小さなホテルがあったし、明治23年にはアメリカ公使館の建物を改装した「横浜クラブ・ホテル」の東京支店が開業している。このホテルはのちに「ホテル・メトロポール」(写真左)というなかなか瀟洒なホテルに生まれ変わるんだけど、その跡地には、今は新阪急ホテルが建っているんだ。

こっちは普通の洋館って感じよね。喜助さんみたいな個性は感じないなぁ。


ホテル・メトロポールは後に帝国ホテルと合併して、明治43年まで営業していたんだ。木下杢太郎の詩にこんな一節がある。「房州通いか伊豆ゆきか 笛が聞こえるあの笛が 渡したければ佃島 メトロポールの灯が見える」

一見普通のホテルに見えるけど、詩を聞いてるとムード満点ね。


鏑木清方の書いたエッセイを読むと、今で言う海辺のリゾートホテルのような雰囲気だったみたい。「ここに泊まってみたいと思わぬことはなかった」なんて書いてあるから、当時の庶民にとっては憧れだったようだね。まぁ、ホテルと言えば忘れちゃいけない、築地精養軒の話もあるんだけど、長くなるからまたの機会に…。

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