浮世絵で見る江戸・築地

第9回 築地海軍兵学校〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:新橋なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

築地でのんびり?気球実検

今回と次回は「築地海軍兵学校」っていうテーマなんですけど…。


ヨーソロー。



えっ? 何ですか? 日本語で話して下さいよ。


何いってんだ! ヨーソローは日本語だよ。「宜しゅう候」の略だ。つまり「了解」とか「問題なし」という意味なの。舵を取る方向を指示するときは「直進」の意味ね。これは海軍用語ですよ。

面舵とか取舵ぐらいならワタシでも知ってるけど…。


面舵はそもそも卯(う)舵。取り舵は酉(とり)舵。卯舵なら卯の方向、つまり東。酉舵なら酉の方向、つまり西ということ。これは瀬戸内の村上水軍からの伝統的な呼び方なんだ。

じゃあ、バックするときは何ていうの?



バックは「後進」。



それだけは普通なのね。



「後退」っていうと負け戦を連想させるからね。絶対に言わないわけ。


あはは。妙なところにこだわるのね。他にも今でも使われている海軍用語ってあるの?

殆ど無いなぁ。ロシアのことを○○ケなんて呼ぶのは外交問題になるしね。ちなみに、新聞社では全員が休んで旅行とか飲み会に参加することを「全舷(ぜんげん)」、半数程度が参加することを「半舷」なんて言うけど、これは生粋の海軍用語だ。
どうして新聞社が海軍の言葉を使うの?



わからんなぁ。まぁ、伝統ということだろうね。全員が旅行に参加して事故にあったりすると、翌日からの業務に差し支えるから「全舷」はイカンなんて上司に言われたことはあるけどね。ところで築地と海軍と言っても全然イメージ沸かないだろうから、ちょっと楽しそうな浮世絵を持ってきたよ(写真上)。

これって気球? あっ、右側の建物は築地ホテル館じゃない?


築地ホテル館かぁ。そうだよな。海鼠(なまこ)壁といい、真ん中の塔といい、良く似てるもんなぁ…。

あれっ? 違うの?



これは海軍兵学寮だ。明治4年竣工だから、築地ホテル館が焼ける前年にできたんだ。しかも、場所は築地ホテル館と堀をはさんで真向かいだ。

へぇ〜。じゃあ、短い期間だけど2つの似た洋館が築地にあったのね。


こちらの建物も築地ホテル館を凌ぐ人気だったらしいよ。錦絵にもたくさん描かれているからね。ただし、良く見ないと混同しやすい。貴重な写真も数枚残っているんだ(写真左、下)。


ふ〜ん。似てるってことはやっぱり清水喜助さんが建てたのかな?


清水建設にも記録がないから、そうではないと思うよ。まだ当時の日本には煉瓦や石を使う建築技術が無かったから、必然的に漆喰壁になって、さらに防火・防水の意味で海鼠壁にしたんだろうね。海軍兵学寮が江田島に移転してからは赤レンガの校舎になるんだけどね。

ところで、浮世絵に描かれている気球の正体は何? 何かのお祭り?


お祭りじゃないよ。大まじめだ。これは明治10年(1877)に行われた気球実検だ。西南戦争で西郷軍に包囲された谷干城率いる熊本城の4000人を救出する為に考え出されたのが気球作戦だった。

あはは。気球で救出って、凄くノンビリムードね。実際に使われたの?


いや、使う前に熊本城攻防戦が終わってしまったからね。海軍にとっては、この時の実検には成功したんだけど、明治天皇をお招きしての天覧実検には失敗するという苦い歴史があるんだ。でもね、日露戦争では偵察用として、結構気球が活躍してるんだよ。

それはそうと、どうして築地に海軍の施設があったのかな? しかも外国人居留区の目の前に…。

要は外国人居留区ができる前から海軍兵学校があったということさ。正確に言うと、海軍操練所ね。

外国人居留区ができる前っていうことは、江戸幕府が作ったっていうこと?


その通り。ルーツは安政2年(1855)に長崎に設置された長崎海軍伝習所だ。だいたいの経緯を言えば、嘉永6年(1853)の黒船来航で、幕府は急遽海からの備えに迫られた。そこで時の老中阿部正弘が大久保忠寛を海防掛目付に抜擢、この大久保が若手官僚だった勝海舟の海防意見書を採用する。そこに書かれていたのが海軍の創設、洋式軍艦の購入、士官の養成だった。これを受けた長崎奉行水野忠徳が、オランダに軍艦を発注、同時にオランダ海軍による訓練も依頼したというわけさ。

ふ〜ん…。勝海舟以外の人は知らないけど、それまで日本には海軍ってなかったの?

海軍という言葉さえ無かった。当時の一般的な呼び方は「水軍」だからね。幕府は諸藩の武力を抑えるために大型船の建造を慶長14年(1609)年から244年間禁じていたんだ。鎖国政策で海外に出る必要もなかったからね。だから当時は軍艦どころか洋式帆船すら造る技術を持っていなかった。だから船も先生も、そのまま海外から輸入するしか無かったんだよ。

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